昭和46年07月31日 朝の御理解



 御理解 第100節
 「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ。」

 家繁盛子孫繁盛。人間誰でも、そういう願いを切に持たない者はなかろう、切実にそれを思う切実にそれを願う。けれども事実はなかなかそういう訳には参りません。そこで教祖様が教えて下さる、教典の全てを覚えて仕舞うとか、それをこのままに行じなければならんとかという事ではない。只ある一つの境地と云うかそれを開かせて貰うと言う事から、何と云ったらよいだろうか。いわば実に簡単な言葉とこう思うのです。私は今日御神前で、白木みのると云うことを頂いた。あの小さいのがおりましょう。
 一寸法師ですかね。その白木みのる。そして今日ここへ御理解頂いておる、百節を頂いておる。白木みのると百節がどの様なつながりを持つものであろうか。本当に家繁盛子孫繁盛につながる。しかも家繁盛子孫繁盛と言う事の、おかげを頂く為にこの教典の全てがマスターされて、そしてこれを間違いなく踏み行うて行きゃ、これは間違いない事なんだけれど、そういう日々信心の稽古をさせて頂きながら、何がそこにある何がそこに答えとして出て来るか心の中に。それが白木みのるである。
 信心の稽古をさせて頂いて、分からせて頂けば頂く程、思わせて頂くことは、その感が深くなる事は、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かないと言う事。所謂障子一重が侭ならぬ人の身であると言う事。ですからあなたのおかげを頂かなければ、立ち行くことではないと云うこと。そこで日に日に更に信心の稽古をさせて頂いて、お縋りをさせて頂く。その一心のお縋りから、どういう答えが出て来るかというとね、一心のお縋りと言う事は、任せてすがると言う事だと思う。
 一心にすがると言う事はね、一心に縋っておったら、あなたにお任せするより外はないのだ。勿論一心にすがると言うても、私共の我が身に持てる真心を捧げての願いになって来るでしょう。信心が段々分かって来ると、真心だ真だと教えて貰う。その真をもって真心をもって、その真を捧げてすがる。そして答えに出て来るのは、お任せするより外にないと言うこと。私は白木みのるという事は、そういう事だと思わせて貰った。皆さん分かるでしょうか。ですから分かれば簡単なこと。
 白木みのるになりさえすれば、家繁盛、子孫繁盛の道が開ける。金光大神が願うておって下さる様なおかげが受けられる。天地の親神様の御神願がやや成就する。ややと言うが半分は成就したことになるわね。私共の上に家繁盛、子孫繁盛のおかげが頂けたら。そこから、神の願いに応えると言うかね。いわゆる、神も助かり氏子も立ち行くと云うことの働きに、私共はならせて頂くと云うこと。
 神願、神願成就とこう言いますね。神様の願いが成就すると言うことは、私共が真実、人間の本当の幸せを頂いて、家繁盛、子孫繁盛のおかげを頂いて、その家繁盛子孫繁盛のおかげをもって、神様に報いる生活。報いて行こうとする生活。そこでここで分からせて頂くことは、神の大恩である。天の恩であり地の恩である。その天恩地恩に対して報謝の生活、神恩報謝の生活。それをお道では、あいよかけよで立ち行く働きと言う風に表現しております。神恩の分かる、愈々天の恩地の恩が深く広く分かる。
 そこで大恩に報い奉ると言う生活。いわゆる親の事は子が頼み、子の子とは親が頼む。頼み合い致せと言う事。あいよかけよで立ち行く道の顕現となるのです。それだけなんです。子孫繁盛の道と言うのは。そこで今私が申して参りましたです。私共があなたのおかげを頂かなければ立ち行かんと、障子一重がままならぬ人の身であると言う事をです。真実、実感として分からせて頂くと言うだけでも、中々稽古させて貰わにゃ分からん。だから、只今申しました様な事をです。
 本当に自分の心の底から、それを思い感じさせて頂いて、そう行じさせて頂いて、いわゆる任せる心というかね、白木である。白木と言うのは、白と言うのは、白紙と云うでしょう。木は心です。いつもが空の心、白の心、真白い心。いつも心を白紙にしておる心。そういう心の状態に、絶対にみのるのおかげが頂かれると言うのが、家繁盛、子孫繁盛のおかげが受けられる道だと思います。ですから、これを簡単に表現すると、どういう事かと云うとですね、どうでもよいと言う事なんです。
 私共の場合なんかは、これが段々強うなって参ります。どうでもよい。どうでもこうでも、こうせんならんと言った様なもんじゃない。例えば御造営なら御造営が思い立たれる。それぞれ皆さん、持ち場立場で、色々な御用がなさっておられる。それは有難い事ですから、お取り次ぎさせて頂く。けれども結果に於いては、どうでもよいのである。しゃっち出来にゃならんとは、ひとつも思っていない。願っていて成就する。そんなら、こげん有難いことはない。
 けれども、それは成就しないからと言うて、それを困った事だとも何とも思わない。どうでもよいのであるから。二十八日の朝でしたでしょうか、私が、三時半に出て参りました。そしたら、電話が掛かってきた後でした。丁度愛子が当番でしたから、電話を受けた。だから三時二十五分ぐらいには、掛かって来たのではないだろうか。御本部の学院に行っておる、末永さんから電話が掛かってきました、昨夜から、直子さんがもう大変な苦しみ様で、全身が痺れてしまって、大変な苦しみ様だと。
 だから三時半を待って、待切れん様にして電話を掛けたらしい。すぐお取り次ぎさせて頂いた。それから御祈念が終って、皆さんが帰った頃に、又電話が掛かってきて、おかげで少し安らいで、体の痺れだけが取れたと言うて、お礼の電話が掛かってきた。それでも毎日、一睡もせん程に苦しんでおるらしい。昨日の昼なんかは、おかげで四時間ばかりぐっすり休まれたと言うて電話が掛かってきた。また夕べ丁度夜の御祈念の後に電話が掛かってきて、公子さんから電話が掛かってきた。
 大体学院には普通の者は入っては行かれんのだけれども、自分達合楽から行っている修行生だけで、移り変わり介抱させて学院と言う所は、どうかあれば必ずすぐ医者に見せなければならぬ様になってる。それで医者に見せた。同時に普通の人も絶対に入ってはいけない事になっておる。けれども古川の方から手続きを取って下さったんでしょう。豊美が今日は、介抱に来て貰ったと言う電話であった。そして医者の見立ての事を、電話で公子さんが言うておりますことは、どんなに診察をされてもですね、
 どこからこういう苦しみが出ておるか分からないと言う、いわゆる病名が付けられん、分からんと云うのである。私はそれを聞いてから、おかげ頂いたと思いましたですね。これはどこが原因じゃから、さぁここば手術せにゃん、これはどこが悪かけん、こげな注射せんならんと言うのじゃなくてです、手の施し様が無い。間違いなく神様の御都合だなと思わん訳にはいかん。
 神様の御都合だからと思うから心が安らぐ。どう言う事もうおかげを下さろうとする御神意以外にないのである。神様の御都合と言うのは。こればいっちょ苦しめてやろうという様な御都合じゃないです。成程苦しいけれどもそこを通らせて、おかげを下さろうとする御一念だけしかないです神様には。昨日からだから御礼ばかり申させて頂いておる訳であります。それはどう言う所から、その事がおかげと感じられたり、有難いという事になってきたか、御礼を申し上げる事になってきたか言うとね。
 私の心の底に、どうでも良いという心があるからです。例えばそういう全身が痺れる様な、しかも狭い部屋を転げ回って苦しむ程しの、そういう苦しみが苦しみ死に、例えば致しましたところで、神様の御都合だと。例えば死んでしまえば、何も彼もないじゃないか。さあ一人を殺して百人が助かりゃ良いじゃないですか。これはその位の事でもなかろうと思います。けれどもです、神様の御神意の程が分からせて頂くところから、そういう心が生まれて来るのですよ。どうでもよい。
 それが白木であります。ですからこうなって来たら、今度は実らん筈がないと云うおかげになって来るです。皆さん信心の稽古を、色々させて頂いておられます。だからままよとか、任せるとかと言う、信心が本格的なところに入って行くと云うかね、佳境に入って行くという頃から、只今申します様な言葉が沢山使われ、自分も、そこんところを行の上に表して参りますね。任せるとか、親先生にお願いをさせて頂いたら、もう親先生にお任せする。ほんなら任せる心とてもですね。
 只どうでもよいという様な心はですね、只、便々としておるという事ではないです。そげなことじゃ生まれて来んです。さっきから申します、一心の真を捧げての、これは私なりの、これは皆さんなら皆さんなりの、一心の真を捧げて、一心の信心が出来ておる時でなければ任せられんです。またどうでもよいという様な心は、尚更頂けるものじゃありません。これから先はもうあなた任せ、どうでもよいのである。それを自分でああしようこうしようとして、右往左往する。
 そういう信心ではね例えばここに教えて下さる、それこそ家繁盛子孫繁盛の道は開けて来ん。只金光様の信心しよりゃ、親の代からしよる。子の代、孫の代と信心が続きよるからと言うてです、家繁盛子孫繁盛のおかげを受けておるとは限りません。親の時は大変繁盛してござったばってん、成程、信心も続いておるけれども、子どもの時代には、繁盛とは反対の、落ちぶれておるという様な場合もあります。だから信心を続けておればといったような事ではない。
 只今、私が申します様なところにですね、焦点を置いての信心。それがね、完璧と云うことは、私共でも出来はしませんもん。けども、ここでは、誰よりもそういう気持ちに、いわゆる誰よりも白木みのるになれておると言うこと。それが合楽の御比礼の基をなしとるのです。ですから、いうなら合楽ではそういう生き方の人が段々出来てきた。本当にそこんところを稽古なさっておられると云うことを、私は思います。
 ここにずらっと並んでおられる、久富さんだって、そうだろう、原さん達でもそこんところ日々のいわば体験者である。永瀬さんに於てしかり、原さんに於てしかり。もういかん、いよいよ、そういう時にはね、お任せするより他になかもんね。またお任せしておかげ頂いとる。その代わりお任せする時には、例えば久富繁雄さんところの例を言うならです、それこそ一家を挙げて一生懸命に打ち込んで来る。そう打ち込まなければ任せられんて、打ち込んだ時でなからなければ。
 だから、いうならば手の平を返す様な、普通で言うなら奇跡という様なおかげになって表れてくるのだ。だからそういう体験を、皆さんが持っておいでられるみんな。ですからどの様な場合でも、そうあられなければならん。人の事が気になってならんとか、自分の仕事の事が気になってたまらんとか。もうてんで神様は心の中から外れておる時と、二、三日前に頂きましたね。私はあの御理解を頂いてから毎日それを思うですね。二、三日前から大掃除の様なことがあってます。
 あそこもして貰わにゃんここもして貰わにゃん、と私が気にかかっている時にはあんたどんの心から神様はござらん時です。そうでしょうが。はぁこの事は素晴らしい御教えだと思いました。あれこれ心配しよる時には、もうすでに、神様が私の心の中にござらんとじゃ。と思うてすぐ神様を取り戻すところの精進信心とは。私共は任せとるなら心配は要らぬ筈。いらいらする事は要らぬ筈。だから本当に四六時中神様を頂くなんて言うのは、大変難しい事だと思いますね。
 まぁ一日、夕方迄かかってお掃除が出来た。高橋さんがちょいと親先生一遍通り見て下さい。そして親先生がここもしとかにゃいかん、あそこもこうしてと言うてお指図して頂きたいと、こう言われる。だからおもむろに立たせて頂いて、一辺通り回らせて頂いた。そういう時には、神様をいっぱい頂ながら見て回って、自分の心にあそこは出来よるじゃろうか、あそこはしたじゃろうかと言うたり、思うたりして自分があっちへ行ったりこっちへ行ったりしよる時には神様を外しておる時です。
 それこそ、その時に、てんで神が空になっておる時と言う。てんでと言う言葉を頂きましたね、あの時は。書いてあったでしょう。如何にも神様神様と、金光様を言いよるごとあるけれども、てんで神様を外しておる時。そういう例えばね、信心の一つの機微と言った様なものを感じ取らせて頂いて、段々信心の稽古をさせて頂いて、結局は、自分でしてから、自分で言うてから、どれだけの事が出来るか。
 先日も、日田の綾部さんが、お届けされる。息子さんに、少しばかり忠告をしなければならない事が起こった。けれども言いよると感情が出て、喧嘩んごつなったらいけんと思うてから、便箋六枚に手紙を書いた。そして寝ておる枕元に置いてきました。はぁそれはよかったですね。それなら間違いない。丁度、昼の御祈念にお参りして、嫁ごが、お母さんあの手紙を読みよんなさるですよと言うて、言うて来ました。と、言うてから、まぁお届けがあっとりました。
 ですから、信心が段々分かって来ると、言わんで済むおかげが頂かれる様になって来る。けども、まだ書きござる。その時に私は、段々こら、一つ一つ自分のものにして行かんのですから。これば、手紙を書かんで済むごとなったら、もっと素晴らしい。いわゆる手紙で言うて聞かせた、はぁお母さんが言うとがほんなこつと分かるだけなんです、ここでは。ところが、言わんで済むおかげと言うのはですね、向こうは勿論おかげ頂くだろうが、こちらもおかげ、お徳を受けるです、言わんで済むおかげは。
 だから、折りがあったら、次の信心をお話をさせて貰うけれども、まあ良かったですね、言わんで済んだだけでもおかげですね。それなんです。任せとると、それが、お任せしておるとそれが出来るんです。そして言わんで済む。それだけのものは神様に向けられる訳です。だから任せる等と、こういう事は、実をいうたら、只、便々と信心がしておる時に、神様がどうかして下さろうと言うのは、それは任せにはならんです。それは横着です。実意を欠いておる。
 神様にはそういう心配なら心配になる心を、神様にうち向けてそしてその心配が任せられたところから、神様にお任せした所から心配がないという様な心が、白紙の状態です。そういう心をです、私共の心の中に愈々頂いて、生活の上にその様な表しが出来る様になるという信心をもってです、しなければめでためでたと言った様なおかげにも、枝も栄える葉も茂るという様な繁盛にも、子孫繁盛の道にも出る事は出来ません。
 今日私が申しました様な事がです、親の代よりも子の代と、孫の代という様に、愈々繁盛して行くところのおかげを頂く、そういう道を教えて下さる。いうならば、この教典の全てが、それのおかげでしょうけれども、これをすべて暗記しておかんならんとか、これを一々行じとかんならんとかと言うのじゃなくてです。そういう稽古をさせて頂ながら、私の心の中に、どうでも良いという白木の心が生まれると言う所迄、信心を進めて行かなければいけんと言う事。
 それには、先ず私自身がです、あなたのおかげを頂かなければ立ち行かん私であるという、私共の無力さの事実をね、分からにゃいかん。障子一重がままならぬ人の身であるという自覚が、本当に出来なければならない。そこからどうでもよいと言う白木の心、更な心。そこから実るおかげの、いわゆる繁盛、子孫繁盛、枝も栄える葉も茂ると云う繁盛。そういう繁盛につながって行くのであります。
 だから皆さんはです、それを確かに身に付けておいでられておる。私はそう信じます、合楽の方達は。だからそれがそうだと、ひとつ本当に思い込んでです、もっともっとピッチを上げて行かなければならん。本気でその事にです、愈々精進しなければならない。愈々その事をです、本当に自分のものにしてしまわなければいけんと思うのです。
   どうぞ。